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二節 「夢」

Author: 桃口 優
last update Last Updated: 2025-05-14 04:09:34

「俺は画家になりたい」

 彼の家に着くと、彼は挨拶をするかの口調でそう話してきた。

 突然のことに少しびっくりした。

 その顔は絵を描くのが本当に好きなのがよくわかる表情だ。

 彼は、目には力があり長身で痩せている。しかも、無精髭を生やし、髪もボサボサだ。

 大抵の人が描く画家らしい姿そのものだ。

 案の定、数日前に髭の話を軽い感じで聞いたら、「画家らしく見えるだろ?」と笑っていた。

 絵の具の匂いが部屋からいつもしている。

 アパートで、広いとは決して言えない部屋。

 その部屋にはたくさんの絵が乱雑に置かれている。

 すべて彼が描いたものだろう。

「俺の絵を見て、幸せな気分になってほしい。俺の絵が誰かの人生に影響を与えられたら嬉しいな」

 僕は絵について今まで興味はなかったけど、確かにどこか心打たれるものがあった。

 興味がない人の心を動かすとは、きっとかなりの実力があるんだろう。

 人は興味のないものには、見向きない生き物だから。

「確かに、どれも美しい色だし、幸福な気持ちにしてくれますね。この色合いがすごいですかね。どこかで習ったんですか?」

 今までであまり見たことのない淡くて優しい色合いとタッチだ。

 それが全体とうまく調和して温かい雰囲気をだしている。

「あざます。さすが、歩はわかってるね。いや、全部独学だよ。楽しくやれるのがいいからさ」

 年下の彼に呼び捨てで呼ばれて変な感じがした。

 今の子はこれぐらいフランクなんだろうか。

 まあ認めてくれているようだからいいかと思った。

「それでこの実力はすごいです。特にあの女性の絵は素敵です」

 僕は長い髪の女性と子どもが向かいあって笑っている絵を見て言った。

「あれはまだ完成してないよ」

「それは失礼しました」

 たくさんある絵の中で、その絵がなぜか気になった。

 彼はそれからまた絵を描き始めた。

 彼はとても大きな夢を抱いていた。

 それは彼を孤独から救う力になるかもしれない。何かの糸口になるかもしれない。

 夢とは誰もが一度は描くものだと思う。

 でも大抵の人は、何かしら理由をつけて諦めてしまう。

 小学校の卒業文集に書いた夢を実際に叶えた人はほとんどいないだろう。

 それが全て悪いとは言わない。年齢が上がるにつれて夢が変わることもよくあることを僕は知っている。

 でも、彼は五歳の頃からずっと画家になり
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  • 寄り添う者   三節 「幸せな絵」

    「何かしたいことはありませんか」 僕は彼に話しかけた。 彼に話しかけた時、彼は大概絵を描いている。こっちを振り向くことはないけど、話はちゃんと聞いてくれる。 集中が途切れないように、僕はその態度にあえて触れないようにしている。 彼には時間が絶望的に足りないから。 もちろん『死ぬ前に』という意味が前につくのたけど、それは言わない。 これは、生きることに対して前向けな話し合いなのだから。 彼は少し何と言おうか悩んでいるようだ。 僕はその間に彼の絵を描くスペースの周りを綺麗しようと思った。 まず、部屋の窓を開けた。 彼の部屋はあまり換気されておらず、空気がこもっているから。 看取り方について、自分の中で変化が起きていた。  看取る人に、そして看取る人の周りのことに、もっと積極的に関わろうと思った。 淑子さんを看取ってから、僕の中ではずっと後悔が残っている。もっと積極的に関わっていればよかったなと感じていた。もっと何かできたのではないかという思いがよく頭によぎってきている。 それができていれば、淑子さんの最期はもっといいものだったかもしれない。 だから、僕はどんどん彼に話しかけた。 今度は後悔したくないし、彼のことをもっと考えたいから。 彼は今床にはうつぶれになっている。 骨肉腫の痛みで、長時間立っていたり座っているのが辛いらしい。 最近は麻痺もでてきている。 それでも彼は時間があれば絵を描いている。 その強い意思は本当にすごいと思う。「うーん、この絵を完成させたい」 彼は、僕が前に気に入った絵を指差した。 彼の手は、絵の具など黒く汚れている。いつも絵を描いているから洗っても落ちないのだろう。 やはり彼のしたいことは絵なんだなと僕は感心した。 彼を突き動かしているのは、絵への情熱に間違いない。 彼にとって生きることとは、絵を描くことのようだ。「あの素敵な絵ですね。どうしてまだ完成ではないんですか?」 絵についてももちろんあれから調べた。 調べるほどに絵画は深くなかなか難しい。  この絵が何をもって完成するかは作者次第だろう。 でも、僕にできることはないだろうか。「ほぼ完成してるんだけど、この二人の感情がいまいち描けなくてね」 この二人とは、絵の中にいる女性と子どもだろう。「特別思入れがある作品なんですか

  • 寄り添う者   二節 「夢」

    「俺は画家になりたい」 彼の家に着くと、彼は挨拶をするかの口調でそう話してきた。 突然のことに少しびっくりした。 その顔は絵を描くのが本当に好きなのがよくわかる表情だ。 彼は、目には力があり長身で痩せている。しかも、無精髭を生やし、髪もボサボサだ。 大抵の人が描く画家らしい姿そのものだ。 案の定、数日前に髭の話を軽い感じで聞いたら、「画家らしく見えるだろ?」と笑っていた。 絵の具の匂いが部屋からいつもしている。 アパートで、広いとは決して言えない部屋。 その部屋にはたくさんの絵が乱雑に置かれている。 すべて彼が描いたものだろう。「俺の絵を見て、幸せな気分になってほしい。俺の絵が誰かの人生に影響を与えられたら嬉しいな」 僕は絵について今まで興味はなかったけど、確かにどこか心打たれるものがあった。 興味がない人の心を動かすとは、きっとかなりの実力があるんだろう。 人は興味のないものには、見向きない生き物だから。「確かに、どれも美しい色だし、幸福な気持ちにしてくれますね。この色合いがすごいですかね。どこかで習ったんですか?」 今までであまり見たことのない淡くて優しい色合いとタッチだ。 それが全体とうまく調和して温かい雰囲気をだしている。「あざます。さすが、歩はわかってるね。いや、全部独学だよ。楽しくやれるのがいいからさ」 年下の彼に呼び捨てで呼ばれて変な感じがした。 今の子はこれぐらいフランクなんだろうか。 まあ認めてくれているようだからいいかと思った。「それでこの実力はすごいです。特にあの女性の絵は素敵です」 僕は長い髪の女性と子どもが向かいあって笑っている絵を見て言った。「あれはまだ完成してないよ」「それは失礼しました」 たくさんある絵の中で、その絵がなぜか気になった。 彼はそれからまた絵を描き始めた。 彼はとても大きな夢を抱いていた。 それは彼を孤独から救う力になるかもしれない。何かの糸口になるかもしれない。 夢とは誰もが一度は描くものだと思う。 でも大抵の人は、何かしら理由をつけて諦めてしまう。 小学校の卒業文集に書いた夢を実際に叶えた人はほとんどいないだろう。 それが全て悪いとは言わない。年齢が上がるにつれて夢が変わることもよくあることを僕は知っている。 でも、彼は五歳の頃からずっと画家になり

  • 寄り添う者   一節 「新堂 尊のお話」

     僕には人がいつ、どのように死ぬかわかる。 まず急に頭の中でたくさんの声がする。その声に意識を向け、その一つを触るイメージをするとその人の細かい情報がさらにわかる。 その情報から、孤独死する人を見つけ出し、僕はその人の元に向かう。 たくさんの人がまもなく亡くなることがわかるのだけど、その全ての人の元に僕は現実的にいけないし、それは僕がしようとしていることと違うことだ。 そうやって僕は孤独死する人を見つけている。 今回は、ある若い男の人の元に行くことに決めた。 新堂尊(しんどう たける) 十八歳。 努力家で、楽天的。 一人っ子で兄弟はいない。 自分の夢を追いかけたいと言い、親に勘当される。 その後親族の誰とも連絡をとっていない。 今は山に囲まれた自然が豊かところで、一人暮らしをしている。 元から友だちはあまりいない上に、人里離れたところにいるから誰かと会うことすらほとんどない。 結婚はしていないし、恋人もいない。 淑子さんとは違い、愛とは無縁の人かなと僕は感じた。 骨肉腫がステージ4で、もう命は長くない。 そのことは誰にも言っていないらしい。 病院には告知を受けた後は一度も行っていない。ずっと家にいる。 彼もまた独りっきりだった。 しかもこんなに若いのに、死ぬ運命になっている。 これからしたいことなんて山のようにあると思う。 それができない辛さは、そこが見えない谷のようだと感じた。 ほかの人は普通にできるのに自分だけができないなんて悔しいだろうから。 僕はまた黒いファイルから情報を事前に得てから彼の元に向かっていった。「はじまして、新堂 尊君。僕は二階堂 歩といいます。いきなりですが、あなたの最期を看取りに来ました」 僕はいつも夕方に人に会いに行く。夕方は、朝でもなく夜でもない曖昧な時間だから。 死というはっきりしたことと向き合うには、曖昧さがある方がいい。 季節は秋になり、コスモスが咲いている。 何があっても時間は進んで行くんだなと僕は感じた。 淑子さんはちゃんと学ぶさんに会えているだろうか。「どういうこと?」 当たり前だけど、こんな風に話しても、信用してもらえない。ただの怪しくて変な人だと思われる。 それでも僕は話しかけることしかできない。「あなたには時間がない。骨肉腫にかかっていますよね

  • 寄り添う者   五節 「最期の日」

     彼女を看取る日がやって来た。 今日彼女が死ぬ。 それはどうしようもできない現実なのだ。 今日は少しだけ日差しが優しい気がする。 いつものように朝の挨拶をしたけど、彼女の返事はもう声になっていなかった。 それでも笑顔を作ろうとする彼女が痛々しかった。 気を使わなくていいと思った。 彼女はいつも平気そうな顔をしている。  それはある人と被るのだけど、僕は意識してその感情を今は心に奥にしまった。 彼女はこの頃食事もとらないし、一日寝ていることが多い。 学さんの顔がいつでも見えるように、ベットの近くに写真を置いてある。 僕は毎日声をかけている。 声をかけることが、彼女を孤独から救う手段だと思ったから。 最期の瞬間を病院ではなく、家で迎えたいと思う人が割合的にかなり多い。 今では彼女の意思はわからないけど、彼女もきっとそう言うだろうとわかった。 この家は主人との思い出がたくさん詰まっているだろうから。 僕は再度彼女の顔を見て、彼女に出会えてよかったと思った。 それは、綺麗事じゃない。 彼女は愛のために生きようとしていた。 その思いを、ちゃんと感じることができたのだから。彼女のそばにいられて本当によかった。 彼女の思いを胸に抱え、僕は彼女に語りかけた。 彼女が僕に向けてくれる優しい笑顔を思い浮かべながら、それをまねた。あなたは独りじゃないという思いを言葉に込めた。「淑子さん、学ぶさんときっと会えますよ。次会えたら好きだと言ってくれますよ」  人が聞けば、なんの根拠もないと思うだろう。 でも、彼女に希望を与えることはおかしなことではないはずだ。 そして、僕は二人の愛を信じている。 彼女の目から涙がすーっと落ちた。 僕は彼女の手を握った。「今よりも幸せになってくださいね」 死にゆく人に幸せになってくださいなんて矛盾しているのはわかっている。 でも考えた結果、彼女にはやはり幸せになってほしかった。彼女はすでに十分幸せと感じているかもしれない。学ぶさんと心で繋がっているから。 でも、彼女にはもっと幸せになってほしかった。 彼女の心に学さんが居続ければ、孤独を感じない気がした。そして、心で思い続けるより、そばにいれるならいる方がいい。だから、この死は希望だとも言えるはずだ。 彼女が僕を見つめる。 僕は両手で彼女の手を

  • 寄り添う者   四節 「孤独」

     次の日、また食事介護をしている時のことだ。 外は、雨がざあざあと降っている。 少し前に内装をリフォームしたこの一軒家でも、雨の音が強く聞こえる。今かなり雨が降っているのだろう。 この雨は、彼女の思いの大きさだろうかとふと僕は思った。 彼女の家自体はとても広く、介護もしやすい。 しかし、完全にユニバーサルデザインになっていないので、少しだけ困るときもある。 段差が少しあったりするので、車椅子を押す時に少し力がいる時がある。 そもそも介護されることを家を買う時に誰も想定していなかったのだろう。 ご飯を彼女の口に持っていこうとした時、「あなたは誰ですか? なぜ学さんはいないのですか? 学ぶさんはどこにいるのですか??」と彼女はいきなり暴れた。 僕が持っていた茶碗が、床に落ちた。 それは、穏やかな彼女からは想像できない姿だった。 もちろん認知症の症状ではあるけど、彼女は、今孤独を強く感じたのだろう。 全ての物事を認知症という言葉で片付けるのはあまりにも強引だと僕は思っている。 愛する夫がどこにもいないと急に不安になった。 それは、パニックになるには十分すぎる内容のことだ。 夫婦として一緒にいた相手とは、周りの人が思うより強い絆で結ばれている。もうその人は自分の人生の一部なんだろう。 もしかしたら、その人のために自分を犠牲にしてもいいほど大切な相手だから結婚するのかもしれない。 僕は結婚をしたことはないけど、なんとなくそんなことを思った。 そして、自分のことを少し思い出すと、頭が痛くなった。 あの日も雨が降っていた。 僕はあの時……。 今とあの日が徐々にシンクロしていこうとしている。 雨音がうるさいぐらい耳に聞こえてくる。 僕は頭を抑えるながら、「淑子さん、落ち着いてください」と小さな声で言った。僕が彼女と同じように大きな声を出すと余計にパニックになるだろうから。それぐらいは今の僕にも判断できた。 しかし、彼女は全く聞いてくれなかった。 きつい言葉をたくさん浴びせられ、物も投げられた。 でも、彼女の力では物を遠くまで飛ばすことができず、それは彼女のすぐ近くに落ちた。 それを見て、僕はさらに心が痛くなった。 彼女はもうそんな力さえないのだとわかったから。 彼女の痛みを少しでも取り除こうとしているのに、いつもなかなかう

  • 寄り添う者   三節 「忘れるということ」

     いつもと特に変わり映えのない日のことだ。「私はもうすぐ死ぬのですか?」 朝日が彼女を照らす。 彼女は寂しそうな目で僕を見つめ、突然そう言い出した。 僕は何と言っていいかわからなかった。 なぜか聞かれるとは思っていなかった。想定できることなのに、僕はそれができていなかった。 彼女も病気に侵されながらも、自分が弱ってきていて後先長くないことがわかるのだろう。 僕が返事がないのを肯定と見なして、彼女は涙を流していた。「そうですか。この年になっても、死は怖いものですね」 震える彼女の手を、僕は握ることしかできなかった。 なんて不甲斐ないんだと自分を責めた。「淑子さん、冷たいお茶でも飲みますか?」 その日の午後。「二階堂さん、わざわざありがとうございます。頂きます」 僕は、二階堂 歩という。 彼女は先ほどのことはなかったかのように、普通に話している。きっともう話したことさえ忘れてしまっているのだろう。そして、僕はそのことを追求できなかった。 静かに丁寧な言葉で答える彼女からは上品さが感じられる。 彼女は背がかなり低く、腰は曲がっていないので車椅子への移乗は簡単だ。 彼女を車椅子に乗せ、僕は今日の天気の話をし始めた。 認知症は自分では管理できない病なのだ。彼女が患っているアルツハイマー型認知症は、認知症の中ではポピュラーなもので、脳が萎縮して起こる。 しかし、管理できないことは苦しいと思う。今朝のように一瞬でも我に帰った時、歯がゆくて虚しいと思う。 彼女を看取ると決めてから、介護の勉強を一通りした。知らないと対応できないことがあるから。 とろみのついたゼリー状のお茶を、スプーンで一口ずつ飲ませる。 飲んでいる間もじっと見ていないといけない。 そうしないと誤嚥しまうことがあるから。 彼女といると、時間の流れが早く感じる。 それは、彼女の死ぬ日が刻々と近づいてきていることを意味している。彼女に希望なんてものは一ミリもない。 日に日に元気が無くなってやつれていく彼女を見ながら、僕はまだ考えあぐねていた。 彼女は愛のために生きてきた。愛があったから孤独じゃなかった。彼女にとって愛は希望だった。 そんな彼女に、最期の時どんな言葉をかければいいのだろう。僕は何をしてあげれるだろう。「今日も温かくて気持ちいいですね」 彼女は

  • 寄り添う者   二節 「看取るとは」

     山田 淑子。 旧姓は、橋本 淑子。 年は九十歳。 五年前までは夫である山田 学と一緒にこの家で過ごしていたが、夫が亡くなった後は独りで生活している。 両親や義理の両親は、彼女の年齢からだいぶ前に全員亡くなっている。 兄弟はたくさんいるけど、同じように亡くなっている人が多く、亡くなっていない人とは疎遠状態にあり連絡をとり合っていない。彼女はその人たちが今どこで何をしているか一切知らない。連絡先すら知らないようだ。 いや、きっと彼女は積極的に連絡をとろうと思っていないのだろう。もし本当に連絡がとりたかったら、人は何かしらの行動をするから。 子どもや孫はいるけど、なぜか誰一人彼女の元へ訪れてこない。 それは彼女の性格などに理由がない気がした。僕は彼女と話していて、嫌な感じをもったことはないから。 「孝行をしろ」とまでは言わないけど、明らかに病気になっているのに、一切心配をしないのはあまりにも酷すぎると思う。 僕は、血縁関係がある意味を考えずにはいられない。 血が繋がっていることをこの世ではかなり大切にするのに、肝心な時にそれを無視するのは矛盾している。 彼女は近所づきあいを特別していない。最近は近所づきあいをしない人が多いけど、彼女の場合は、きっと夫との生活がすべてだったのだろう。夫がいればそれで幸せだった。 他の人と交流することに意味を見出さなかったのだろう。 今は市の福祉サービスは何も受けていない。つまり、訪問介護を受けたり、デイケアに行ったりしていない。 彼女は毎日誰とも関わりをもっていない状態なのだ。 僕は山田淑子さんについてまとめたファイル改めて読んでいた。 ここは、現世とは違う場所だ。 いつも人は誰もおらず、静かなところだ。 そこには、大きく白い真四角な棚が等間隔でたくさん並んでいる。 その棚の中に、山田 淑子さんや他の人の情報が書いてある黒いファイルがたくさん入っている。 彼女はこの世界から完全に取り残されていた。 もしも僕が会いに行かなければ、彼女が死んでしまっても、誰も気づかないだろう。 そんな最期を迎えるのはあまりにもかわいそうすぎる。 孤独死。 それはかなり前から社会問題とされているけど、国による根本的な対策は何もされていない。個人ではどうすることもできないぐらい大きな問題だ。だから孤独死する人の

  • 寄り添う者   一節 「山田叔子さんのお話」

    静寂が静かに崩れていく。 それはまるで砂時計の砂がさらさらと落ちていくかのようだ。「学さんは、私のことを好きと一度も言ってくれませんでした」 突然そんな声が聞こえてきた。 『学さん』とは、声の主の主人だ。 僕と彼女以外いない狭い部屋で、彼女の声が響く。 最近は極暑だとメディアでとりあげられていて気温は果てしなく高い。彼女の家でも窓を開けずクーラーと扇風機をつけている。熱中症に家でなったら大変だからだ。もはや熱中症は外に出かけいなくてもなる。暑さは健康に大きく害をなすようになってきている。「若いあなただけじゃなく、どんな時代でも女性は、好きな人にストレートに『好き』と言われたいのです。ただ当時はそれをよしとしない風潮があったから、黙っていただけです」 白髪で、短くなってしまった髪を触り彼女は少し顔を赤らめた。 彼女が二十代の頃は、男尊女卑の考えが当たり前だった。妻は黙って夫の考えに従う。女性が自分を主張することを社会的に許さない時代だったのだろう。 世界情勢的からみても戦争があり、皆心にゆとりがなかった。 しかし、形あるものとして愛情を受けとりたいという願望は間違ってはいないと僕は思う。 見えないものはどうしても頼りなく、すぐに人を不安にさせるから。 見えるものがほしくなる気持ちは僕もよくわかる。 ベッドに横たわる彼女を見ながら、僕は何歳に見られているのだろうなあとふと思った。 僕は二十九歳だけど、彼女からすればまだまだ若い人に分類されるだろう。「学さんは本当に無口な人です。大事なことも何も言ってくれません。その上、何でも一人で勝手に決めちゃうんです。私は振り回されてばかりです」 僕は、静かに話を聞いていた。 話している内容は夫に対する文句なのに、彼女はどこか幸せそうな顔をしている。 彼女の目が、それを物語っていた。 でも、彼女は突然涙を流し始めた。 一体彼女の中に今何が巡っているのだろうか。「学さんはいつもそばにいて、私のことを守ってくれています」 僕は胸が苦しくなった。 この気持ちをどう扱ったらいいかわからなかったから。 彼女にとって『愛』とは何だったんだろうか。 尽くすだけの愛。なんの見返りもなかったかもしれない。それでも、彼女の口からは悲しかったとか辛かったという言葉は一度も出てきていない。 愛されてい

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